Transformation Game®️本日はSoloセッション
〜はじまり、はじまり〜
週1回で2週にわたり2日間でのSolo Game。
最近いらしてくださる方たちのテーマは、本当の自分って誰?何?
とご自分に問いかけている方たちが多い。
プレーヤーさんご持参の太陽の塔のマーカーが可愛いくて、はじめて見たのでパシャリ。
ゲームも内容や中身は、やっぱり不立文字(笑)
ですが、素敵に展開していることは、はっきりわかります。
ゲームへの参加は、過去の体験から自分自身を確認できたや気づきや洞察や新しい発見が起こるだけでなく、「目覚めた意識」って、どんなことなのかを知ることもできる機会にもなる。
ゲーム全体のガーディアンエンジェル、個人のガーディアンエンジェルについてのシェアリングと内容の中にある認識された『あるが在る』の感性。
ブレッシングスクエアのイベントで気づきのトークを祝福することから自分自身に起きていること、もの、各スクエアのイベントも同様で、出来事から現れているものを言語ができないが確かに在る感性、そのもののバイブスは、とても瑞々しい。
その時に内側で起きていることの感覚の認識を1つ1つをゆっくりと味わいながら腑に落とし、アンカーリングしながら進んでいます。
1回目、2回目と1つの目的で行うとSoloセッションで、どんな展開になるのでしょう。
楽しみです。
*Kazumiの小話*
私自身のことになりますが、Facilitator trainingから今までのGameとの関わりから知っていること解っていること。
極端な表現だが、私が何者か?に気づくまでの間、長い期間『Depression』の中にいたとわかってしまった。
それは『いまここ』に滞在していなかった。『いまここ』がどういうことか⁉︎
何を意味するのか⁉︎
また、その意味について、『いまここ』という真実の状態を知らなかったからだ。
ファシリテーターのゲームトレーニングの中で話すことかある。
気づきが起きていない状態で生きているのは、まるで死んでいるようなもの。
自分が何者かを全く分からず、考えと感情と状況への判断でどうすれば、自分の思い通りに欲求が満たされる展開になるかを夢見て生きているのは、まさにそのとおりだ。
人生の全てが思い描いたドラマにはなり得ないだろう。
自身の体験だが、ある時、ある会参加した。そこでは、その日、講師がこう言った。「みなさん日常で、悲しみや怒りに執われる事もありますよね。今日は、その感情の源を探してください」
頭脳の考えは、こう囁くだろう“どうやって探すのですか?”
おりしも、私は数日前に突然起きた2つの出来事があった。その2つの異なる関係性による出来事から私は、悲しみと怒りにいた。
探し方は、わからなかった。そして、ただやった。
その感情はどこにもなかった。5秒もかからなかった。感情はあるが、それは私ではないがわかった。
出来事を私のビリーブが判断したことと感情がくっいていた。そして感情が私になっていた。
思考や感情と自己同一化している時にそれが起きていた。
いまここには、ただ、こかちよかっさだけだった。
自分の意にそぐわないことや思い通りにいかない状況があると、自身の中で引っ張りっこや混乱が起きて、自我の執われがおきていた。
どんなふうに?
例として、まだ起きていないことをあれこれと考える。
もちろん、それまで、ほとんど自分では気づいていなかった(笑)
思考と感情って、それは私なの?
それは、本当のことですか?
いえいえ、違います。
それは、たんなるパターンです(笑)
悲しみ、怒り、羨ましい、恥ずかしいetc
ある事情から私がそうなっていると思っていたものたちのたしかな根拠はない。
パターンが起こす妄想だ。
いまここ(何もないそれ) には、無かった。
無い!を実際に体験した時は、驚いた、そして腑に落ちた。(ハズ)
けれどもいまここ(何もないそれ) から意識(気づき)が離れると、またすぐに馴染みのある脳の回路が作動する(笑)
思考や感情は、私のものでもない。
だが、慣れ親しんだパターンはそれが私だと強固に思い込んでる。
自我の同一化が起きていた、というわけだ。
そして、知らず知らず(気づきのないまま)、嬉しいこと、気持ちいいことをもとめて自分の外側へ探しにでかけた。
何年も、自我と何もないそれ、全一をカイマミをしながら行ったり来たりが続いた。
いまは以前とは違う。
観ている それ が存在している。
日常は以前と変わらない。特に誰かと会ったり、名画を見たなど、特別なことがあるわけでもない。日常の1つ1つに楽しさ、可笑しさ、嬉しさ、豊かさ、ありがたさ、穏やかさ、安心、喜び
そぉいう質(エネルギー)が私と呼ぶものに変化していた。
ある古いお話を思い出す。
あるところに老婆がいた。彼女は、“とても賢かった‘’
ある日の夕刻、老婆は道にしゃがみ込み何かを探していた。
そこへ村人が通りがかり『何を探しているのか?』と訊ねた。
老婆は『針を探している』言った。
村人は、『どこら辺りで落としたのか?』と再び訊いた。
すると老婆は『家の中だ』と応えた。
村人は『それでは、ここで探していても見つからないじゃないか』と言った。
すると老婆は『夕刻になってきて家の中は暗くなったので、陽がまだある外で探しているのだ』と応えた。
*ここでの“賢い”とは、知識のことを意味する。
知識は、明かりがなければ針を見つけることができない。と判断する。
智慧は、落とした場所がどの辺りかを知らなければ、探すことはできないを知っている。
笑い話のようなブラックな話だが、忙しい生き方は、思考の知識から現れる(笑)
智慧は『いまここ』に』在るが存在』する。『あるが在る』
そんなことを思い出しながら、幸せを感じる何かや何処に探しに行っても見つかるはずがない。
自分の内側にしかないのだから。
それも失うことのない喜びがある。
上り坂、下り坂は、どちらが多い?
も同じ。
全ては1つなるものから現れて、それぞれを通して表現されているソースの表現。
トランスフォーメーションゲームは随時開催しています。
ご興味のある方は下のリンクよりお願いさします。
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