~帰るお家~ 自分の内側にある穏やかさと智慧
もうずっと昔のことですが、私は1人ぼっちだと感じていました。いつも、この世界に自分の居場所がない、誰とも真の分かち合いができないというような孤立した感じです。
私にとって心というものを定義するならば、HeartとSpiritが1つになったものです。
ところが私といえば、心許なくて、そわそわして落ち着つきがなく、バラバラな感じした。
毎日の暮らしになんの不満もないのに、どこかしっくりしない・・・。
たとえば、美しい自然の中にいても、美味しい食事をしても、旅をしても、どんなに素敵な体験をしても、刹那的なその瞬間の幸福感しか感じることができませんでした。
ある夏、妹と2人で尾瀬へ行きました。湿地帯、さわやかな風、真っ青な空、息をのむほど、美しかったはずなのに、声も出なくて、心が躍るような満たされたという感じとは異なりました。私の横で妹は、本当に笑顔で喜びをそのまま表現しているのに私は表現する手立てさえわかりませんでした。
幸福感は、つかの間、すぐにとおり過ぎてゆくもの。まるで写真のその瞬間を切り取って、それが白黒になってゆくような、とても冷めた感覚でした。
私のなかでさえはっきりしていないのですが、長い間、ずーと帰る家(ホームベース)を求めていた気がします。
ところで、忘れもしない2009年の「初夢」にオーラソーマのボトルが出てきました。
グリーンをベースにしたイクイリブリアム ボトルたちが集まって並んでいました。忘れないようにすぐに写真を撮りました。私は、その夢から、自分の内側に 帰るお家 があったと気付いたのです。
色について話すと、グリーンは、青と黄色を合わせたものです。
色についてのイメージは、人それぞれですが、青色の意味やイメージするのは、
空や海の色、またブループリントと、ソースや偉大なクリエーターを意味するかもしれません。
黄色は、知識、智慧、自我、喜びなどの意味合いがあります。
2つを合わせたグリーンは、バランス、スペース、安心、穏やかなどの意味があります。
色の意味やボトルのネーミングから、私は、私の内側に住むスペースがしっかりあったことと、それに気づくタイミングがようやく、やってきたのだと理解しました。
こともあろうか、宇宙でたった1人ぼっち、そんな感覚の私が、ココロとカラダとスピリットに働きかけるいろんな手技や手法を学び、15年前から仕事として始めることになりました。
その1つ、オーラソーマと禅瞑想指導をしてくれたメンターがこう言いました。
「セラピーを提供するセラピスト自身が、まず真理について学びわかっている必要がある」
またブラジリアンのシャーマンで尊敬するメンターは、こう言いました。
「教えるということをする人が1番学ぶ必要がある」、「ヒーリングをする人が1番ヒーリングされている必要がある」「ヒーラーはクライアントから、みえたものを決して自分からは話してはならない」私の中で、これは心に響きました。それで、禅でいえば真我(大いなるものや、本物のSELF、1つなるもの)の探求、己を調えるためのワークを真剣すぎるほどしました。学んでばかりいて仕事もそこそこに1年のうち7ヶ月くらいワークショップやトレーニング三昧の日々を過ごした時期もあります。それもこれも、自分自身の中の満たされない渇望感を求めていたのだと思います。
今当時のことを振り返ると、起こるべくしてすべては起きていることがわかります。セラピーの仕事を始めてすぐの頃、ある作家さんから、「量子力学的な見地から瞑想はカラダにとてもよいから習いなさいな」と誘われました。その言葉はとても魅力的に聞こえました。それで、作家先生の別荘で開かれるTM瞑想の合宿に参加しました。その後は毎晩マントラをを唱えながら坐りました。3年~4年ほどたったころ、TM瞑想をはじめると、毎晩のように急性胃腸炎起こし、四苦八苦するという状況が、1週間ほど続きました。
あまりのつらさに、どうやら私にはこの方法は合っていないと坐るのをやめました。
今思えば、不思議なのですが、そのすぐあとに「日々の生活の中に坐禅をとりいれたら?」とすすめられ、坐禅と出会いました。
禅はただ座ります。思考がで現れたら、かるく観て、通り過ぎるままにします。思考につかまらないように、また思考がどこからやってくるのか、その源を観ます。
とてもシンプルですが、初めての坐禅では、うまく座ることができませんでした。
マントラを唱えて坐るTMのとは違い、禅のすわり方は、hハードルが高く感じました。
鼓動はバクバクしていて、物音が気になってしまいドキッとしたり、
深い呼吸ができず、自分自身の普段の呼吸さえ思い出せないほど・・・(笑)
そんな緊張を、繰り返しながら座りました。
当時は、実際の生活もハラハラドキドキな出来事が多かったように思います。
自分自身を自由に表現できないことや、じめっとしていて、みじめな感じや、無価値感や無気力感などで覆われているような。自我にとって、苦しくて辛い時期でした。
そンな中でも、自分に起きている感情や、反応に注意深くいました。そして時には何も気づかず、抜け落ちていたり、、、、。
そしてどちらの状況が目の前で展開していようとも とにかく坐りました。
と同時に学びの場に行き、学び、体験や経験からも学びつづけました。
そしてまた、座りました。
座っていると、穏やかでしあわせです。
垣間見体験もいろいろおこりました・・・。それはとてもすばらしく魅力的です。
けれど、いったんそこから出て、自分の足で立ち日常生活にもどると、目の前にあれやこれやの状況、個人のドラマが始まります。そして、反応し、囚われて、・・・・と繰り返してゆく。
いくら坐っても 座っても 「悟り」という感覚は、日常生活には現れず、ましてその境地にはほどとおいものでした。
ある日、もうとらわれずに、あきらめようと決心しました(笑)
その日から、追い求めるのをやめ、ただ坐るだけを続けました。
呼吸に意識を向ける
思考に気づいている
心地よさ、楽な感覚、ありがたいなぁというような感覚、幸せだなぁ~という感覚、感覚にありつづけます。坐る は 即ち 感覚にだけの 時間になりました。
その感覚 こそが 私の帰るお家だったのです。
それが、わかった時、もう、それだけで十分でした。とてもありがたかったです。
今もそれは、変わらずにどんなときにもあって、離れてしまっても無理にそこに行く努力もなく、ただともにあります。
ボトルたちは、私にそのことを教えに夢の中でやってきました。
そこには、穏やかさと智慧のバランスがあり、いつでも十分!という満たされてた感覚があります。
ココロとスピリットが1つになる、穏やかさと智慧が1つになったのです。
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