何もないあの感覚

坐るということ
ただ坐る瞑想会を始めて足掛け6年たつ。
ここ3年はzoomで無料の会を開催している。
坐るということに
目的や意味はない。
ただ坐るだけだった。

それをはっきりと認識が起きると、追い求める私が消えた。

昨夜は、ちょっとした実験を皆に提供した。

思考と一体化している時と
思考や感情が全くない時との感覚や感性のちがい。
(うまく思考が出てくれることを願いながら(笑))

坐る…
慣れてくると、すぐさま何もない空間が広がる
そこには何もない、私もない

少しして
思考がやってきたてしよう
すると、思考は私と一体化する (どうやら人は、その状態などを私と認識している。過去私もそうだった)

だか、思考と自己同一化したさなかにも
あの何もないのだが、穏やかさや静まり返った感じの広がる空間の感覚が同時にある。

考えと自己同一化し一体化しているもの
から
離れると

何もない。だが豊かさや潤いのような、あるいは静まり返った幸せのような拡がる空間がある。

どちらが 私と呼んでいるものなのか?(笑)

実験では、
思考が出ていて一体化した感覚
何もないが何かがある空間の広がりの感覚

後者の感覚が起きると
もう以前の騒々しい私に戻れない

DO からBEへのトランジッション。
よって、やっぱりない。

あるのは、あの心地よさだけ。

心配や恐れや悩みに気づかずにつかまっても、気づけば、それさえ贈り物だ。

Blue Lotus ありのままで 

鳥には空が見えない、 魚には水がみえない、 人間には自分がみえない

0コメント

  • 1000 / 1000