神の遊び場の風 気づきから『SurrenderとCalling』
佳いお天気の朝、屋上の植物へ水やりをすませる。水やりも好きな作業の1つ。鉢の中の草取りをしながら、貝殻病を歯ブラシでこそげ落としながら、ただ無心で過ごせる、優雅で贅沢な時間だ。
写真は、挿木した2年目の Saint Ceciliaが咲いているローズ香とフルーツ香に強いミルラ香が混じった芳香から、心が作り出した想念の私が消えてゆく。本来の本性『喜びそのもの』が現れる。
下の写真は、風か小鳥が種を運んできたのか、昨年からローズマリーの大鉢に棲みついた野生の蘭らしきもの。
この花が咲いた時、自然というものの営みの豊かさにしみじみとこの世界は奇跡だと高揚感の至福に満ちた、過去に、幸せ、不幸せと区別しながら生きてきたこと、それさえも素晴らしいのだと心底思った。
ほんとは、何にも分からず、気づかず、眠っていたのだ。だが、気づきが起これば起きるほど、目が覚めた感覚がある。
それこそ、いのちの活動だったことに気づく。
『私たち全てが影響しあってここにある』を頭脳ではなく、感覚で実感した。
さて、コーリングについて触れていこう。
昨年の10月からパーソナル コーチングのセッションを新たにオープンした。
私がやりたいことや、私ができることを仕事としてやる。という想いで仕事をしていないことに気づいたのはかなり前からですが、Surrenderが起きたのは2020年の暮でした。
ある時、しごと関係のグループで、何かをしなければならないということが起きまして、その呼びかけに対して、私は、気乗りしませんでした。それより長年の間、そこでまとめてくれた人が、その出来事から役を辞めるということになり、挨拶があったのですが、誰1人、労いなどの発言のないことが気になりました。
課題となっていたことは、世界全体に起きているコロナ禍の経営活動の困難さ。なんとなく、取り立てて、騒ぐようなことでもないのにと、騒々しく感じていました。
けれども個我の感覚は、それとは別に、私もみなさんと一緒にやらなくちゃならない…となにかに焦り、追い立てられるような圧迫感やひどく騒々しい感じが起きていて、とても違和感がありました。
わかっていたのは、自分のビリーフが創り出している不快さや居心地の悪さでした。
すっきりしない1夜、それでながらもしっかりと快適に眠っていたのも妙な感じでした。
翌朝、目覚めると『何もしなくてもよい』(
=する人そのものが無い)という気づきがおきてました。
なぜかはわからないですが、起きた瞬間に過去の体験からやってくるものではなく、その新しい気づきは、スムーズに腑に落ちていました。言い換えると、私ではなく、私という「器」に起きていた感じでした。
*(私なんものない訳だから、当たり前と言えば当たり前 (笑)ですが、ここでは、便宜上、私と呼ばせてもらいます)*
それ以来、日常生活全般が、わたしのやりたいことやわたしのできることをやる…という想いが消え、気づきに応答する。すると、することが勝手にはじまり、それをやる。やっていると楽しくなり、それを好きになっていました。
あらためてみてみると、『好きなことをやっているという私』という主体が消えて、やってることを好きというようになっていました(笑)
そんなことがきっかけで、トランスフォーメーションゲームの参加費をドネーションで開き、その全額にプラスで£1000ドネーションをしたり、無料の坐わる会をひらいたり、パーソナル コーチング セッションをはじめたり、7月に開く、女神山でのリトリートの企画したりetc…の活動になっていました。
でもこれ、仕事しなきゃ…や経済をなんとかしなきゃ…とか
で始めたわけでは無いんです。
思いつきが勝手に起きて、対応していたら、そうなっていた。というのが真実。
頭脳では、私、なんでこんなことしてるんだろう???と、時々ふと思います(笑)
だけど、呼びかけに対応していると、その中では、いろんな意識の変化が起きていて、本当に楽しいし、幸せだなが残ります(笑)
最近は、活動もですが、食べるものから行くところまで、また悲しみも喜びも、全てが『ご縁』でしかないとおもっています。
ヒーリングの勉強を鬼のようにやっていた頃、『ツールになりなさい、通りをよくしなさい、透明になる…』とか、いろんな言い方で教えられました。
ですが、それは、わたしが主体だと決して起きません。
私を明け渡すと、ほんとに、軽くて楽で、気軽で自由でいいです。
お問合せは下記のサイトからお願いします。
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