神の遊び場の風 『私は誰か?』
生業の1つにトランスフォーメーションゲームという意識を扱うワークをしている。
このゲームの存在を知ったのは、28年くらい前、『成功の三角形』というワークショップのためのパス作りを担当していた時に上司から「アメリカに『Transformation Game』と言うのがあるらしいんだけれど、まだ日本には入って来ていないのよね。」という話を聞いた。その瞬間にあっ、いつか、必ずこれを提供しよう!と強い衝動が起きた。そしてそのことさえも忘れた。だか、その10年後に出会い、その思いつきは、具現化された。
このゲームの認定ファシリテーターのトレーニングでの私は、「私は誰か?」を知ることはできなかったし、知る道につながるとも思えなかった。
けれど、ゲームを提供すればするほど、私は何者か?気づいているが起こる。
同時にやっていた坐禅での問いかけ、わたしは誰か?
瞑想で坐ることは練習だ。そして坐って練習した感覚を日々の生活に適応する。(するわたしはいないんだけど)
すると、思考が動くほんの少し前にある「それ」広がり、深み、味わいが起こりはじめた。
いまでは、禅の基盤である
無い けれども そうとも言えない だかやはり無いとしか言いようがない。
がしっくりくる。
山は無い そして 山は在る
私は無い そして ある(私)か在る
を眺めているものの認識がある。
さて、zoomでただ坐る瞑想会を開いている。
ゲームに参加してくれた方や友人達たちだ。
とても嬉しい感想をいただいたのでご紹介します。
言葉という概念で語るしか無いので、ありのままはお伝えできないけれど(不立文字)
エネルギーの質、あるいは味わいのような物が伝わった。
わたしは なく、ただ在るがある。
〜感想〜
今までは心地よさ、気持ちよさの感覚に浸ってそこにステイする感じでしたが、
そのままの状態をただ見ている時間が長くなりました。
感覚を意識だと思っていたところから、それは誰がしているを
見続けたら
セパレーションを起こしていたことに気付き、気持ちの良い感覚がただ起こっているのを
ただただ観る。
Eちゃんの質問、とても参考になりました。
前に知りたかったことでした。
本日の瞑想の感想です🧘♀️
ありがとうございました😊
〜追加の感想〜
先程の続き
胸が締め付けられる思いや
ときめく感情、感動さえ
自分のものではなく
それは誰のものかと問うた時
ただ起こっているだけということを目撃した味わいは
なんとも言えないものでした
ついさっきの出来事です。
いつもありがとうございます😊❤️
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