神の遊び場の風 オンラインでの坐る会
2021年のはじめ頃から定期的にオンラインで坐る会を始めた。ことの始まりは、世界中に発生した2020年のコロナウィルス感染のシナジー効果からだ。
そのシナジー効果の余波でなんとなく腑に落ちない出来事があり、2日ほど悶々とした。翌朝起きたら、『何もしなくて良い。するという行為がないのだよ。競争から降りなさい』と声が聴こえた。
その日は前の日まで悶々として澱んだ感じだったカラダ全体が、この上なく軽やかでイキイキしたエネルギーが存在していた。
境界線はなく空間が広がり、とても自由だった。
さらに翌朝目が覚めるとオンラインで『坐禅会を開き必要な人たちと坐りなさい』とよう呼びかけられた。
まさか?わたしが?
と思ったけど言われたまま、起こるがままにはじめてみた。
シナジーの影響と言うと私たちにとって嬉しいやありがたいという表面的に良いことのように思うだろう。
だが、そうとはいえない。禅の教えにあるように善悪や正しい、間違っているなど2極性を超えたところに真理がある。
この機会は、全体性の中の1つのパートとして自然いや全てと調和した全体性の中に入るきっかけを与えてくれたように思う。
坐るという行為は、行為がおちる。
あると信じてきた私、あなた、世界などの概念が落ちる。
DO→BEへと移行する。
では、個人、自己だと思っていた私はどうなるの?
もちろん存在する。しかし私という概念や観念が薄れてゆき、しまいには無くなる。
いのちというエネルギー活動がある。
すべて、「ご縁」というもので起きている。
だから、起こることが起き起こるかとしか起こらないということだ。
受け入れるもなければ、受け入れる人さえない。ただ起きている。
過去を振り返れば、私が所有するという存在様式だった。ところが、坐れば坐るほど、私という実態がない。持つから在る存在様式へ移行する。
私の愛、私の能力、私のお金、私の学歴、私の仕事…
そお言った持つ様式から在る様式に存在し始める。タイトルやラベルには興味があまりなくなるし、こだわりも薄れ、自由さが残る。
私自身というものに対しても、何かを持つことより、いまこの瞬間にどんな感性や感覚があるかが 幸せの基準に変わる。
どんなことも最終的に幸せだなぁ…やありがたいな…へ移行。
自分を世界をどうこうするがなくなり、結果クリェィティビティという表現が起こる。
私について悩んでいる。例えば『理想の私にならなければ』というような想念は存在しようがなくなる。するといのちの活動は自由になる。
肉体はつかれたり、病気したりするが、ハートはいつだってフレッシュだ。
もちろん、ほとんど日常は、洞察や気づきをクリエイトする。
ただ淡々とやる必要のあることをやる。
それは私がやっているという意識はない。
わりかたやするという感覚はない。
やらされているもない。
ではなんなの?
って聴きたいよね。
勝手に起きている。
2年一緒に座ってきた仲間たちもどんどん楽になって、最近ではありがたいなでいっぱいの人たちもいるようだ。
来年の開催は、どうしようかなぁ〜と思っていたけれど、まだcallingや気づきがこないのでまた1年つづけます。
ご興味のある方は、下記のリンクから連絡ください。
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