win vs win 猫Guessの独り言
生きるというのは、1言で言いらわすことはできませんが、日常の生活のすべてが、「意識」から発生し成り立っています。
「意識」は、無意識、という全く自覚のないものや本能的な感情、そして個々の体験からの条件づけられたビリーフなどが絡み合いちょっと複雑になっているかのように観えます。
けれども、宇宙の法則からみれば、実際は、しごくシンプルな構造だと思います。
さて、Transformation Game ® は、私たち個々のユニークな体験とそこにある、あるいは、あった意識のようなものをさまざまな方法で理解してゆきます。
「宇宙の奇跡」のファミリーメンバーは、Transformation Game®FacilitatorとしてGameの純粋さを学ぶ探求をしています。
その過程で、「Who am I?私はなにものか? 」 と自分自身に問うことで、今まで観えていなかったものが徐々にみえはじめ、やがて鮮明に観えてきます。
観えてくるということは、理解できる、腑に落ちる、気づきになるさらに自分のリソース(資源) となりうるものです。
「時に軽く、時にはとてもヘビーに探求し学ぶということをしています」
学問を学ぶときとは、学び方は異なるかも知れません。
それは、「自分自身に起こる事」、「起こった事」から、その出来事からどんな感情が出てきたか、どんな考えが起こって、何を条件付けしたかを理解できるようになります。
これは、とてもスムーズに理解や気づきが現れることもあるし、とても困難な場合もあります。
これは、ある程度のところまで練習しておけば、あとはTrainingでTrainerが指導してくれます。
後半は、個々の ビリーフに気付くという「意識」にフォーカスしました。
意図したのは、人の存在のありようやFacilitatorとして ガイドの 在りようにそう意識づけです。
Facilitatorのやってはいけない事例を実際にあった出来事を例題としてみました。
それではいったい、その中の何が問題なのか?
これについては、問題としてわかる人、まったく気づかない人、肯定する人 とさまざまです。
また、分かっていても 問題としたくない・・・という思いの人々もいます。
しかし、私たちFacilitatorの仕事は、何が起きているのかをクリアーに観ることができる能力が必要です。起きていることを誰かや何かを責める感情の反応とは、別の視点から物事を扱います。
例えば、Gameの中では、天使のカードが入ってくると、お招きの誘導瞑想をし、その後に誘導瞑想からやってきた、その天使から受けた、印象やメッセージや洞察やフィーリングやフェルトセンスなどをシェアしあいます。
その時のFacilitatorのシエアーは
「んん~そおね~、〇〇さんにはその天使は遠いかもねぇ・・・」というシエアーだったとします。
これについて、どう思いますか?とディスカッションする。
私たち1人、1人が陥りがちな、美しい仮面のつもりが、般若の仮面である、甘い罠を見つけ、執われたエゴのありようを見つて、それを 成熟した知性、鋭い感性、しなやかな強さ、柔らかさへと 気づきと洞察から変化させて行く。
巧妙で屈折している歪曲したコミュニケーション、聴いているようで全くクライアントの話を聞いていない自己顕示欲、先生やメンターグル、女神など教える人を演じるアクト、勘違いなspiritual リーだー気取りetc、、、、。
学習テキストとして、人の意識のありようをそこに反映させ、個を超えた感覚や時には低級エゴのエ出現やとさまざまです。
ある人々にとってはそれはとっても苦しみをとまおなったり、ある人々はそれをワクワクしていたり・・・。
わからないことをわからないので教えてください、というと、調べてください と言われ、、、、
それでもわからないものは分からない。
せつなくて、悲しくて、落ち込んで、泣いた夜もあったかもしれません。
自分自身の無意識の部分に光があたる時、まだ意識されないうちは、向かい合うのが、ほんとうに辛いこともあります。
それでも、その出来事に背を向けず、自分を他者を宇宙を欺かず向き合った時、まるで憑き物でも落ちたかのような別人になります。
みんなで、存在として、Facilitatorとして、人としてどうありたいかを目指しました。
と呼ばれる人たちなのでしょうか?
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