非言語の幸せ

かつて「無」と聞き、
何もない世界はつまらない。
と思っていた、なにも知らない頃。
シャーマニズムや瞑想やいろんなワークで、思いもよらず
そこへ近づくと躊躇した。
入り込めなかった。
入る私がそこにいた。
わたしは、わたしを解き放つことはできなかった。
そこには 「わたし」 は ないのに。
今では笑い話(笑)

瞬間瞬間 そこにある。
いのち の息吹
とでも言おうか
「それ 」
だけなのだ。

そこには 
浅いも深いも
深めるも
うまくいくも
ない

日常生活で いろんなことを知り、学び
 うまくいったり、
わかっているような気持ちになったり
わたしには 価値がある
わたしの人生には意味がある
という誰にでもある
自己表現と承認されたいという
人間の中にある本能の欲求

可笑しいことに
思考から離れるはずの瞑想をしても
書物や理論に惑わされ
わたしはわかった
深めている
などと
いかにできているか
あるいは
悟った
と言う
人さえいる
それも すべて が 思考の産物

そして多くの人が
あながち陥る罠 だ。

非言語の なにもないそれは
言葉にはならない

言葉で 例えるなら
生命の息吹
いや 例えることはできなかもしれない

触れる たびに
人間であるからこそ
現れる source の「表現」
それの 感覚 

知覚や気づきが起こる
人間であることを喜ばずにはいられない。

Blue Lotus ありのままで 

鳥には空が見えない、 魚には水がみえない、 人間には自分がみえない

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