思考って誰のもの⁉︎ 発信と表現

これから描く文字のことは、極々個人的なことです。

私は誰?
ズ〜ト長い間のテーマだったこと。
そして
優先してきたこと。


今のところ
たどり着いたのは、
私とは?
実態のないもの
そして
ワタシだった。

ですが、過去に私と表現したそれとはまったく異なったもの。

今はそれ以上は言葉では説明できません。

この写真、気に入っているんです。

私はそれ。

その瞬間の同調で起きていた感覚と知覚

それ。

そんなふうに起きた「いま。」
瞬間、瞬間の 「それ」

まだまだ自我の概念は、残ってまして、これ自我だねぇ〜と眺める出来事もタップリありますが
それを愉しむ
そして
いまに 在る
それ
そこに個人を表す私はない
話は変わりますが

意識が行動をつくり、行動が習慣をつくり、習慣が人格をつくり、人格が運命をつくる。

30代の頃に出会った7つの習慣という本の中にあった言葉。

この格言のような文を読み、そぉかぁ〜、すべては意識からはじまるんだね!
とそれがどういうことかもわからないながら、自身の中心にある意識へと興味はますます向いていった。

言葉を使うコミュニケーションの中で、言葉の概念というより、言葉の背景にあるエネルギーの質でコミュニケーションをしていることに気がついたのは、小学校低学年の頃でした。

今でも、頭の考えだけを話している話は街の中のさまざまな音が重なった騒音のようにしかきこえてきません。

背後にある本来のエネルギーを感じられないと何を話しているのかを理解できなくて、ものすごく退屈になります。

ブログやsnsなどで、なんらかの表現をする時、一体何のためにそれをしようとしているのかを考えてしまい、発信することに対して躊躇してしまうことが多々おきます。

何のために?
と、自分に問い始めると流れはそこで止まります。

では、なぜそんなことを考え始めるのか⁉︎
きっと外側の世界で出会う文字の中にある表現に、個人のパターンの嘘くさいという=不信感が起きているんだと思います。
(ジャッジメントがおきるわけね)

愛について語る人、教えるにフォーカスがある人、損得にフォーカスがある人etc

ついつい個人の無意識の底辺にあるものに目が向いてしまいます。

そんな時、心の中で起きているので、心が作り出す想念というドラマあるいはストーリーが起きている…と眺めます。

眺めるという表現は、
ここでは、

『起きている』

文字通り、起きているという認識のみが起きます。

人はともかくとして、では私は表現することについて、何のために?

これは、私軸で考え始めると全く主観でしかないので、そんなの恥ずかしくて…
が肉体軸で起きちゃいます(笑)

思考の作り出す怖れや心配。そこから抜け出して、伸び伸びした執われのない感覚を発信できたらいいない…と思います。
はっきりしているのは、思考は私ではない。
そして誰のものでもない…

これも委ねるあるいはsurrenderへ進んでゆく一部かな?

Blue Lotus ありのままで 

鳥には空が見えない、 魚には水がみえない、 人間には自分がみえない

0コメント

  • 1000 / 1000